ラッセル幸福論

ぼくは道を転じて、動物たちとともに暮らせるような気がする彼らはあんなに穏やかで、自足しているぼくは立って、いつまでもいつまでも、彼らを見る彼らは、おのれの身分のことでやきもきしたり、めそめそしたりしない彼らは、暗やみの中で目ざめたまま罪をくやんで泣いたりしない彼らは、神への義務を論じ立てて、ぼくに吐き気を催させたりしない一匹だって、不満をいだかず、一匹だって、物欲に狂っているものはいない一匹だって、仲間の動物や何千年も前に生きていた先祖にひざまずくものはいない

一匹だって、お上品ぶったり不幸だったりするやうは、広い地球のどこにもいない

ーウォルト・ホイットマン

 

退屈の本質的要素の一つは、現在の状況と、いやでも想像しないではいられない他のもっと快適な状況とを対比することにある。また、自分の能力を十二分に発揮するわけにいかないことも、退屈の本質的要素の一つである。

 

要は、倦怠の犠牲者にとって、きょうと、きのうを区別してくれるような事件であればいいのだ。ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。

 

しかし、他のほとんどすべてのものと同じように、問題は分量である。少なすぎれば病的な渇望を生むかもしれないし、多すぎれば疲労を生むだろう。だから、退屈に耐える力をある程度持っていることは、幸福な生活にとって不可であり、若い人たちに教えるべき事柄の一つである。

 

多少とも単調な生活に耐える能力は、幼年時代に獲得されるべきものである。この点で、現代の親たちは大いに責任がある。彼らは子供たちに、ショーだの、おいしい食物だのといった消極的な娯楽をたくさん与えすぎている。そして、毎日毎日同じような日を持つことが子供にとってどんなに大切であるかを、真に理解していない。もちろん、やや特別の機会はこの限りではない。幼年時代の喜びは、主として、子供が多少の努力と創意工夫によって、自分の環境から引き出すようなものでなければならない。興奮はさせるが、身体はちっとも動かさないような快楽、たとえば観劇などは、ごくたまにしか与えるべきではない。この種の興奮は、麻薬に似ていて、次第に多量に求められるようになるからである。それに、興奮しているときに肉体を少しも動かさないというのも、本能に反している。子供が最もよく育つのは、若木の場合と同様に、いじりまわされないで同じ土嬢の中に置かれているときである。多すぎる旅行やあまりにも多彩な印象は、幼い者たちにとってよくないし、大きくなるにつれて、実りある単調さに耐えることができなくしてしまう。

 

何か真剣な建設的な目的を持っている青少年は、その途上で必要だとわかれば、進んで多量の退屈に耐えるだろう。しかし、ある少年が製楽と浪変の生活を送っている場合は、建設的な目的が彼の精神の中で芽ばえるのは容易ではない。なぜなら、そういう場合は、考えがつねに次の快楽に向いていて、遠いかなたにある達成に向かわないからだ。以上のような理由で、退屈に耐えられない世代は、小人物の世代となるにちがいない。つまり、自然のゆったりした過程から不当に切り離され、生き生きとした衝動が、まるで花びんに活けられた切り花のように心の中で徐々にしなびていく人びとである。

 

私は、神秘的なことばづかいは好きではない。とはいえ、科学的というよりも詩的なことばを使わずに、私の言いたいことを言い表すすべを知らない。どのように考えようと、私たちは<大地>の子である。私たちの生は<大地>の生の一部であって、動植物と同じょうに、そこから栄養を引き出している。<大地>の生のリズムはゆったりとしている。

秋や冬は、春や夏と同じように、<大地>の生のリズムにとって不可久だ。休止は、動きと同じように不可々だ。子供にとっては、おとなの場合より一段と強く、地球の生命の引き潮・満ち潮とある程度の接触を保つことが必要である。人間の身体は、幾時代を通して、このリズムに適応してきたのであって、宗教は復活祭の形で、このことをいくぶんか具現化している。私は、ずっとロンドンに住んでいて、初めて緑の田舎の散歩に連れ出された、二歳の男の子を見たことがある。季節は冬で、どこもかもぬれて、どろだらけだった。おとなの目には喜びを起こさせるものは何ひとつなかったが、男の子の心には、不思議なエクスタシーがわきあがった。彼は、ぬれた地べたにひざまずき、顔を草にうずめて、ことばにならない歓喜の叫びをあげたものだ。この子が経験していた歓喜は、原始的で、単純で、大きなものだった。そのとき満たされつつあった全身的な要求は、実に深いものであって、その要求の満たされていない人びとは、完全に正気であるとは言えないくらいだ。快楽の中には、たとえばギャンブルなどが好例だが、こうした<大地>との接触の要素がまったくないものが多い。こうした快楽は、尽きるやいなや、人を素漠とした、不満足な、自分でも何がほしいのかよくわからないものを切望する気持ちにさせる。そういう快楽は、歓喜と呼べるようなものは何ひとつもたらさない。これに対して、私たちを<大地>の生と接触させるような快楽は、その中に深い満足を与えるものを持っている。こうした快楽が尽きても、それがもたらした幸福感は残る。よしんば、その快楽が続いていたときの強さは、もっとどきどきするような道楽の与える快楽の強さには及ばないにしてもである。私がいま考えている区別は、最も単純な営みから、最も洗練された営みに至る全領域にわたって見いだされる。先に話題にした二歳の男の子は、<大地>の生との触れあいを限りなく原始的な形で表現した。しかし、もっと高級な形では、同じものが詩の中に見いだされる。シェイクスピアの叙情詩を絶唱たらしめているのは、この二歳の男の子に草を抱きしめさせたのと同じ喜びにあふれている点である。「聞け、聞け、ヒバリ」とか、「おいでよ、この黄色い砂浜へ」とかを考えてみるがいい。読者は、これらの詩の中に、先の二歳児にはことばにならない叫びでしか表現しえなかった感情の、洗練された表現を見いだすにちがいない。

 

現代の都市に住む人びとが悩んでいる特別な退屈は、彼らが<大地>の生から切り離されていることと密接に結びついている。それは、生活を砂漠の中の旅のように、暑苦しく、ほこりっぽく、のどのかわくものにしている。自分のライフスタイルを選べるくらい富裕な人たちの場合、特に彼らが感じている耐えがたい退屈は、逆説的に聞こえるかもしれないが、退屈への恐れに由来するものである。実りある退屈から逃げることで、もう一つの、もっと悪い種類の退屈のえじきになるわけだ。幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、真の喜びが息づいていられるからである。

 

幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。

 

農業をやり出したとき、人類は、餓死する危険を少なくするためには単調さも退屈も甘受しよう、と決意したのである。人間が狩猟によって食物を得ていたころは、仕事はひとつの喜びであった。

 

そのことは、金持ちがいまだにこの先祖伝来の仕事を娯楽として追求していることから明らかである。しかし、農業の導入とともに、人類は卑しさと不幸と狂気の長い時代にはいった。

 

たとえば、甲はイチゴが好きで、乙はきらいだとしょう。どんな点で、乙のほうがすぐれているのか。イチゴがよいとか、よくないとかいう抽象的かつ客観的な証拠はまるでない。イチゴが好きな人にはよいし、きらいな人にはよくないだけの話だ。しかし、イチゴが好きな人は、きらいな人の知らない快楽を知っている。その限りにおいて、前者の人生のほうが楽しいし、また、前者のほうが、両者が暮らさなければならない世界によりよく適応していることになる。このささいな事例において真であることは、もっと重要な事柄においても同様に真である。フットボールを観て楽しむ人は、その分だけ、楽しまない人よりもすぐれている。読書を楽しむ人は、そうでない人よりも、なお一段とすぐれている。読書の機会は、フットボールを観る機会よりもずっと多いからである。人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなり、また、ますます運命に左右されることが少なくなる。かりに、一つを失っても、もう一つに頼ることができるからである。ありとあらゆることに興味を持つには、人生は短かすぎる。けれども、日々を満たすに足りるだけ多くのものに興味を持つのは、結構なことだ。

 

このようなさまざまな状況において、人生に対して熱意を持っている人は、持っていない人よりも有利な立場にある。不愉快な経験ですら、彼にはそれなりに役に立つ。

 

未開人は、空腹になれば狩をし、そうすることで直接な本能に従っている。毎朝、一定の時刻に会社に出かける人も、基本的には同じ衝動にかられて行動している。すなわち、生活費をかせぐ必要である。しかし、彼の場合は、衝動は直接的に、感じた瞬間に働くわけではない。間接的に、抽象と信念と意欲を通して働くのである。この人は、会社に出かけるとき空腹を感じてはいない。なにしろ、さっき朝食を済ましたばかりなのだ。彼はただ、いずれは空腹をおぼえるだろうし、会社へ行くのは将来の空腹を満たす手段である、ということを知っているにすぎない。衝動は不規則なものだが、一方、習慣は文明社会では規則的にならざるをえない。未開人の間では、集団的な事業でさえーそういうものがあるかぎりにおいて1自然発生的かつ衝動的である。種族が戦争に行くときには、裁裁が土気をあおり、集団的興奮が一人ひとりを必要な行動に駆り立てる。現代の事業は、こういう仕方で営むことはできない。一定の時刻に列車を出発させなければならないときには、野蛮な音楽によって、赤帽や機関士や信号手を奮い立たせることはできない。彼らは、それぞれ、義務として仕事をするにすぎない。すなわち、彼らの動機は、間接的である。彼らは、その行動への衝動をみじんも感じていない。ただ、その行動の最後の報酬に対する衝動があるだけだ。大部分の社会生活にも、同様な久点が見られる。

 

生活のどの瞬間にも、文明人は、衝動を制限する垣根にとりかこまれている。たとえば、彼はたまたま陽気な気分になっていても、通りの真ん中で歌ったり踊ったりしてはいけない。一方、たまたま悲しい気分になっていても、歩道にすわって泣いたりしてはならない。歩行者のじゃまをするといけないからだ。

 

子供のころには、学校で自由を束縛され、おとなになってからは、勤務時間中ずっと自由を東縛される。こういう次第で、熱意を保つことがいよいよ困難になる。のべつに制約を受けていると、疲労と退屈が生じがちだからである。にもかかわらず、自発的な衝動にかなり強い制限を加えないことには、文明社会は立ちぬかない。それというのも、自発的な衝動は、最も単純な形の社会的な協力を生み出すのみであって、現代の経済組織が要求する高度に複雑な形の協力を生み出さないからである。こうした熱意への障害を乗り越えるためには、人は、健康とありあまるほどのエネルギーが必要である。それとも、運がよければ、それ自体おもしろいと思えるような仕事を持つことが必要である。

 

こうした狂的な気質の予防薬としては、宇宙における人間の生命と位置とを大きく認識することにまさるものはない。こんなことをここで持ち出すのはひどく大げさに思えるかもしれない。しかし、こうした効用のほかにも、釣り合いの感覚は、それ自体大きな価値を持つのである。

 

現代の高等教育の欠点の一つは、ある種の技術を獲得する訓練にあまりにも傾きすぎて、偏見のない世界観によって理性と感情を広げることがあまりにも少なすぎた、という点である。たとえば、あなたは政治闘争に夢中になり、あなたの政党の勝利のために懸命に働くとしよう。そこまでは、それでよい。しかし、闘争をしているうちに、たまたま勝利の機会が訪れるかもしれない。そして、そのためには、世界じゅうに憎しみや暴力や疑惑を増大することを目的とした方法を用いなくてはならないとしよう。たとえば、勝利を得るには、ある他国民を侮辱するのが一番の近道であることをあなたは発見するかもしれない。もしも、あなたの精神の射程が現在に限られており、また、もしもあなたが重要なのはいわゆる能率のみだという教義を信奉しているのであれば、あなたは、そういう疑わしい手段に訴えるだろう。そうした手段によって、あなたは、目前の目的においては勝利を収めるだろう。しかし、もっと遠い将来の結果は、破滅を招くものであるかもしれない。これに反して、もしもあなたが精神の習慣的装備の一部として、人間の過去の時代を持っているならば、つまり、人間が徐々に野蛮さから部分的に抜け出してきたこと、天文年と比べれば人間の全生涯なんていかに短いものであるかを承知しているならばーもしも、そういう思想があなたの習慣的な感情を作りあげているならば、あなたの参加している瞬間的な戦いなどは、私たちが徐々に抜け出してきた暗やみに向かって逆戻りする危険を冒すに足りるほど重要ではない、ということを悟るだろう。

 

いや、それだけではない。よし目前の目的において敗北したとしても、あなたは、あなたに恥ずべき武器をとるのをいやがらせたのと同じ意識、つまり、目前の目的なんではかないものだという意識にささえられるだろう。あなたは、目前の活動のかなたに、遠い、次第に明らかになっていく目的を持つことだろう。その目的においては、あなたは孤立した個人ではなく、人類を文明生活へと導いた人びとからなる偉大な軍勢の一員なのだ。もしもあなたが、こういうものの見方を獲得したならば、あなたの個人的な運命がどうあろうと、ある種の深い幸福があなたから離れることは決してないだろう。人生は、あらゆる時代の偉大な人びととの霊的交渉となり、一個人の死など、もはや、ささいな事件にすぎなくなるだろう。

 

私は、若い人たちが過去を生き生きと意識するようにしてやりたい。つまり、人類の未来は、どう見てもその過去よりも測り知れないくらい長いことを鮮やかに実感するとともに、私たちの住んでいる惑星がいかに小さいか、また、この惑星の上での生命がいかにたまゆらの事件であるかを、しみじみと悟るようにしてやりたい。そして、ともすれば個人の卑小さを強調しがちなこれらの事実と同時に、まったく別のひと組の事実も提出したい。すなわち、若い人たちの心に、個人が成就しうる偉大さや、個人に匹敵するほど価値あるものは広大無辺の宇宙空間のどこにもない、という知識を刻みつけるためのものである。

 

魂の偉大さを持ちうる人は、心の窓を広くあけて、宇宙の四方八方から心に風が自由に吹き通うようにするだろう。彼は、自分自身を、生命を、世界を、限りある身の許すかぎり、あるがままに見るだろう。人間の生命の短さと微少さをわきまえながらも、同時に、個人の精神の中には、既知の宇宙に含まれている価値あるものがすべて集約されていることを悟るだろう。また彼は、世界を写す鏡のような心を持った人は、ある意味では、世界と等身大に偉大になる、ということを知るだろう。環境の奴隷に付きまとうもろもろの恐怖から解放されたとき、彼は深い歓喜を覚えるだろうし、外面的な生活にどんなに浮き沈みがあろうとも、心の奥底では幸福な人間でありつづけるだろう。

 

自己中心的な情念の大きな欠点の一つは、生活にほとんど多様性をもたらさない、という点である。自分自身しか愛さない人は、確かに、愛情において八方美人的であるといって非難されることはない。しかし、熱愛の対象がいつも同じなので、結局は耐えがたい退屈に苦しむにきまっている。罪の意識に悩まされている人は、特殊な自己愛に悩んでいるのである。この広大な宇宙の中で彼にとって最も重要だと思われるのは、彼自身が道徳的であるということだ。こういった特殊な自己没頭を奨励してきたのは、一部の伝統的宗教の重大な父点である。

 

幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。

 

また、こういう興味と愛情を通して、そして今度は、それゆえに自分がほかの多くの人びとの興味と愛情の対象にされるという事実を通して、幸福をしかとつかみとる人である。愛情の受け手になることは、幸福の強い原因である。

 

すべての不幸は、ある種の分裂あるいは統合の欠如に起因するのである。意識的な精神と無意識的な精神とをうまく調整できないとき、自我の中に分裂が生じる。自我と社会とが客観的な関心や愛情によって結合されていないとき、両者間の統合の穴如が生じる。幸福な人とは、こうした統一のどちらにも失敗していない人のことである。自分の人格が内部で分裂してもいないし、世間と対立してもいない人のことである。そのような人は、自分は宇宙の市民だと感じ、宇宙が差し出すスペクタクルや、宇宙が与える喜びを存分にエンジョイする。また、自分のあとにくる子孫と自分は本当に別個な存在だとは感じないので、死を思って悩むこともない。このように、生命の流れと深く本能的に結合しているところに、最も大きな歓喜が見いだされるのである。