あした死ぬ幸福の王子

 本来的な生き方

=交換不可能な、道具ではない生き方

=自己の固有の存在可能性を問題とする生き方

=自分の人生とは何だったのかを問う生き方

=死を意識した生き方

ハイデガー的には、それは甘い考えだと言わざるを得ない。だってそうだろう?

「いつかやって来る」なんて言ってる時点で、死とまったく向き合っていないじゃないか。いや、まったく人間という生き物は、みな病的なくらい死から目をそらす。メメントモリ(死を想え)の標語を与えられてなお、死を未来に置いて遠ざけようとする。もちろん、おまえですらそうだ」

 

ハイデガーの言う「死の先駆的覚悟』とは、いつか来る死を想像して備えよ、という話ではない。今、この瞬間に人間は死ぬ存在なのだという事実を真っ向から受け止めろ、という話なのだ。

 

  1. 良心とは、負い目を感じる心である。
  2. 負い目は、人間の無力さ、有限性から生じるものである。
  3. また、負い目は、誰でもいつでも感じられる日常的なものである。
  4. その日常の負い目を見逃さず、向かい合うことで「死の先駆的覚悟(本来的な生き方)」ができる。

なぜ④の結論になるかと言えば、負い目と向き合うということは、「無力さ」と向き合うことであり、「有限性」と向き合うことであり、すなわち「死」と向き合うことであるからだ。

 

まず前提は、「人間は有限の存在である(死ぬ存在である)」ということ。

この前提により人間は必ず「負い目(無力さ)』を感じる。

この『負い目』から目をそらした生き方が「非本来的な生き方』であるが、ハイデガーは、この『負い目(自己の有限性)」に正面から向き合えと言う。いや、それどころか、『自分が有限であること(自分が死ぬこと)』を先取って覚悟しろと言う。

 

彼らは気づいたらこの世界に放り出され、そして、死ぬことが運命づけられ、何が正しいかもわからないまま、自分だけの固有のあり方を問いかけ、他と関わりながら、今ここに現に生きている存在ーである」あぁ、これだと思った。これしかないと思った。これ以外の呼び方は、彼らの生に対する冒涜にすら思えた。