体験の哲学

「なっちゃいない。漫然と口に物を運ぶな。何を前にしー何を食べているのかを意識しろ。それが命喰う者に課せられた責任ー義務と知れ」

 

もちろん、こういった「感覚無視」は、生きる上で便利な機能だと言えます。大切な人と会って話をしているときに、足の裏の感覚まで気にとめるのは非効率。そんなどうでもいい感覚より、目の前のもっと大切な感覚に注意を向けるべきでしょう。
しかし、問題は、その便利であるはずの「感覚無視」の機能が「日常生活全体にまで及んでしまった」ときです。仮に、あなたにとって「大切なもの」「興味をそそるもの」が何もなく、すべての日常生活が「どうでもいいもの」になってしまったらどうでしょうか?
おそらく、そのときにはあなたの人生の大半が、足の裏の触感のように、耳鳴りのように、「どうでもいい感覚」となって意識にのぼることなく通り過ぎていき、本来であれば膨大にあったはずの人生の時間をほんの少ししか実感できないまま、あっという間に寿命を迎えることになってしまうでしょう。
当然そんな羽目には誰だってなりたくない。時間が加速したかのように過ぎ去り、あっという間に老人になって寿命がくるなんてゾッとする話です。が、そうは言っても歳を重ねるたびに、「注意の対象から外れるような出来事(どうでもいいこと)」が人生の中にどんどん増えていっていることも否定しがたい事実のように思えます。
実際、子どもの頃、私たちにとって、人生に起こるあらゆる出来事は新鮮なものでした。それゆえ世界はくっきりと見え、時間もゆっくりと流れていました。しかし、大人になり日常の出来事が新鮮さを失うにつれ、世界はぼんやりとしていき、時間が過ぎ去るのも早くなってしまいました。

 

アリストテレスが語る幸福の定義を引用して終わりにしたいと思います。
「行為それ自体が目的となるような行為こそが幸福だ」

 

つまり、今まさに起こっている体験それ自体を目的とするのです。それ自体が目的なのだから、過去の記憶や誰かの体験と比較する必要もなく、それゆえ言語化をする必要もありません。そのように体験そのものを目的として無心で味わうとき、「純粋経験」があなたの元に訪れ、哲学が定義する(自己承認でも、自己実現でもない真の)幸福という状態が訪れることでしょう。