なめらかな社会とその敵

私たちは、まず生命を語り,その延長線上の存在として人間と社会制度について語らねばならない。
社会システムは生命システムにおける一現象に他ならない。

 

生命が結局のとこる自己維持するネットワークにすぎないといっており、無限退行の問題を,生命は自分自身を維持するシステム以上でも以下でもないという自己言及性によって、目的と手段が一致してそれ以上遡れないところを明らかにする。これによって、自分が生きていることの意味が、生きていることの外部に別にあるのではないかという蒙味な探求の旅から抜け出ることができるようになる。こうして、生きていること自体が無根拠であり無意味であることを知り、かといってニヒリズムに陥らず、生きていることそのものに意味があり謳歌してもよいのだということを教えてくれる。

 

あらゆるものを私有(private ownership)と公有(public domain あるいは commons) に振り分けるのではなく、人々がゆるやかに共有(share)する文化が育まれる。
むしろ,私有や公有は、共有の特殊なかたちとして残ることだろう。

 

次に,組織を仮想化することは、よいことをそれがただよいというだけの理由で人々が支持するようになる働きをもつ。人々は組織の論理だけではなく、すべての人々への関心に基づいて行動するようになる。それこそが組織がなめらかになることの最大の効果である。

 

ある財が今ここにあるまでの来歴と貢献の歴史を知覚することは、財の所有観に影響を与えることだろう。私有でも公有でもないゆるやかな共有の感覚といってもいいかもしれない。財の価値は、他者との取引ネットワークにおけるフローの中から生まれてくるものであり、もともと共有されているものが一時的に私の下にあるという感覚である。PICSY という仕組みは、ひとりひとりが自分株を発行して、その自分の金庫株で取引をしているのと同様である。自分の所有関係は自分が誰に依存していまここに生きているかという情報であり、自分が誰を部分的に養っているかという情報でもある。さらにいえば,自分という存在の価値もまた,たくさんの人々の貢献によって今ここに成り立っている共有物であるという感覚が育まれるだろう。自分という存在が世界の中で同心円上に広がっているという感覚こそ,近代社会を超える新しい世界観なのではないだろうか。

 

一貫性という強迫観念から解き放たれた社会システムを、民主主義という社会のコアシステムから支え上げるのが分人民主主義の構想である。

これは単なる民主主義の変革に留まらず、新しい社会規範を生み出すことだろう。静的で一貫し矛盾のないことを是とする世界観から、動的で変容し多様性にあふれることを是とする世界観へ、私たちの身体が今こそ試されている。

自らの一貫性にさえ執着しなければ、自分の思いどおりにならない集団的意思決定が行われたときの姿勢が変化することだろう。体裁を整えるために反対し続ける必要はなくなる。どれも正解かもしれないと考えてみる。自分の意見がいままで変化していたのだから、またこれから変わるかもしれないと思う。そういう考え方もたしかに自分の中にもあったなと反対意見の気持ちを汲み取ってみる。世界の多様性を自らの中に取り込み,自己の多様性を世界にさらけ出す。そのループの中からもしかしたら新しい知性が生じるかもしれない。

 

現在,人類は1週間に30億時間をゲームに費やしており、この量はこれからますます大きくなるだろう。なぜこれほどまでゲームに魅力があるかといえば、現実では得られることのない達成感をゲームでは容易に得ることができるからである。人口減少社会においては、現実社会での自己実現は困難になりつつある。ゲームの労働化と労働のゲーム化は、それぞれ現実逃避の現実化と現実の現実逃避化であり、ゲームのもつ力によって、現実の世界に人々の能力を活かす道を取り戻すことになる。

 

以上は人類に閉じた話ではあるが、なめらかな社会における資源と意思決定の問題は、本来,生態系全体の中で考えるべきであろう。すなわち、人類以外の生物も含めて、資源の貨幣的交換や集合的意思決定を行うことはできないのだろうか。イルカの研究で著名なジョン・リリー(神経科学)は、クジラやイルカに国連の議席を与えるべきだと主張した。これは決して笑い飛ばすような論点ではない。人類が生態系の一部である以上,他の生物の存在を含めなければ、なめらかな社会システムは未完なままである。拡張現実の技術は、現在のところ人間のために使われているが、今後は魚や草花のための拡張現実ができるようになるだろう。情報技術によって人間同士のコミュニケーションのプロトコルが増えたのと同様に,異なる種の間でのコミュニケーションが多様化するのは必然である。人間が虫や鳥や木ともっと交流できるとしたらどれだけすばらしいことだろう。こうした技術の延長線上に、生態系全体としての集合的意思決定や資源配分問題を解決する社会システムを構想することができるはずだ。近代以降、人間は他の動植物の頂点に立つ非対称な存在として世界をとらえていた。だが、人間中心主義の時代は終わりを告げようとしている。なめらかな社会が生態系にまで広がり、より対称性のある社会が可能になるかもしれない。