「そう思ってくれたんやったら、僕も話した甲斐があったわ。株価が上がるか下がるかをあてて喜んでいる間は、投資家としては三流や。それに、投資しているのはお金だけやない。さっきの2人は、もっと大事なものを投資しているんや」
ボスは七海と優斗を順に見つめてから、ゆっくりと続けた。
「それは、彼らの若い時間や」
気がついたら、子どものころの感覚を取り戻していた。ふたたび社会に手触りが出てきて、ぼくたち”と思える範囲が広がったんや。
このぼくたち”を広げると、社会の感じ方が変わる。優斗くんが年末に買ってきてくれたどら焼きを、二百円で手に入れたと感じるか、和菓子屋のおばちゃんが作ってくれたと感じるかの違いや。
ぼくたち”の範囲がせまくて、おばちゃんが外側にいる赤の他人やと思えば、二百円で手に入れたと感じる。つまり、お金がすべてを解決したという感覚になる。しかし、「ぼくたち”の範囲が広がって、おばちゃんをその内側にいる仲間やと思えれば、おばちゃんが作ってくれたと感じる。
この”ぼくたち”の範囲は、知り合いかどうかではなくて、僕らの意識次第や。お金の奴隷になっている人ほど、この範囲はせまくなって、家族くらいしか入らへん。いや、家族も入らない人もいるやろうな。
そうなると、自分の生活を支えるのは、お金やと思ってしまう。知り合いの店だろうとどこだろうと、働いてくれた人のおかげだなんて思えない。社会をぼくたち”の外側に感じて、すべてが他人事になり、お金を増やすことしか考えなくなるんや。