資本主義の中心で、資本主義を変える

今までは守りの経営をしてきた。これからは攻める。壊す前提でやる。

式年遷宮。常若。

自分のエネルギーを何に使うか?どこに溜めるか積み上げるか?

大局観、世界の情勢は掴み続ける。(仁のためにも)

資本主義を自分が使う。活用する。利用する。

資本主義 = 所有の自由 × 自由経済

→結果的に競争が促される

 

このように、資本主義の根本原理(「所有の自由」×「自由経済」)の使い方によって、いろいろな形の資本主義があることがわかる。どちらにしても資本主義の根本原理は競争の増幅装置のようなものであり、そこにはなんの思想も存在していない。しかし、いつの間にか思想が備わってしまったという側面がある。  それが、①成長の目的化、②会社の神聖化、③時間軸の短期化だ

 

私の考え方は日本では過激だとみなされるだろう。日本の奇跡的な戦後復興が、会社と従業員の間の強い絆があったからこそ成しえたという見方には、私も完全に同意だ。しかし、現状をしっかり見つめ直してみてほしい。経済の成長ステージを過ぎて人口が減っていく日本において産業を活性化させていくためには、適切な新陳代謝が必要であることは論をまたない。あえて厳しい言い方をすると、「存在意義を失った会社は、どんどんつぶれるべき」なのだ。  たとえば、伊勢神宮には式年遷宮という習慣がある。20年に1度すべての建物を壊し、別の場所に新しい建物を作り変える。この儀式の背景には、神の勢いを瑞々しく保つ「常若の思想」があるそうだ。元来我々日本人は、そのような新陳代謝の発想を持っている国民であり、戦後復興の過程において会社の存続を絶対視する方が「一時的」なのかもしれない。しかしその期間が数十年にもおよぶと「常識」と化してしまう。

 

観賞用や食用の魚を長距離輸送する際に、ストレスで魚が死んでしまうことがあるそうだ。しかし、水槽の中に何か1つだけ入れると魚が死ななくなるらしいのだが、それが何かおわかりになるだろうか?  答えは酸素でも餌でもなく、「ピラニア」だ。ピラニアを水槽に入れることで、ピラニアに食べられてしまいたくないという魚の生存本能が掻き立てられ、ストレスのことなんか吹き飛んでしまうのだそうだ(実際は魚がピラニアに食べられてしまわないように、水槽に仕切りを入れるらしい)。