より強い重力に、人は引き寄せられる。
これでほとんどのことが説明できる、かつ戦略を立てることができる。エンロールメント。
ジラールは、私たちが多くのものを欲するとき、それは生物学的な誘因や純粋な理性によるものでもなければ、幻想に惑わされた自分自身の命令によるものでもなく、真似によるものであることを発見した。
ジラールが「欲望(desire)」という言葉を使うとき、それは食欲や性欲、身の安全を求める気持ちではない。それらは「欲求(needs)」と呼んだほうがいいだろう。生物学的な欲求に真似は関係ない。砂漠で喉が渇いて死にそうなとき、誰かに水が欲しいところを見せてもらう必要はない。
しかし、生き物として基本的な欲求が満たされたあと、私たちは人類の欲望の世界に足を踏みいれる。そして、欲しいものを知ることは、必要なものを知ることよりもずっと難しい。
自己実現欲求
承認欲求
親和欲求
安全欲求
生理的欲求
ではなく
欲望
安全欲求
生理的欲求
マズローの欲求階層は正しくない
内にある生物学的シグナルの代わりに、私たちには選択を動機づける別のシグナルが外にある。モデルだ。モデルは欲望に値するものを示してくれる人やモノである。私たちの欲望を形づくるのは、「客観的な」分析でも中枢神経系でもなく、モデルなのだ。こうしたモデルをもとに、人々はこっそり精巧に真似る。ジラールはこれを、ギリシャ語で真似るという意味のmimesthaiを語源とするmimesis (ミメーシス)という言葉で表現した。
モデルは重力の中心であり、それを軸に社会生活は回っている。今これを理解することの重要性が、かつてないほどに高まっている。
人類が進化するにつれて、生存に関心を持つ時間が減り、ものを求める時間が増えた。つまり、欲求の世界で過ごす時間が減り、欲望の世界で過ごす時間が増えたのである。
模倣の欲望は人々を物事に向かわせる。「この引き寄せ・・・・・・この動きが・・・・・・模倣である。心理学における物理学にとっての重力である」とジラールを研究するジェームズ・アリソンは述べる。重力は人間を物理的に地面まで引き寄せる。模倣の欲望は、人間を愛、借金、友情、共同事業といったものに引き寄せたり、そこから離したりする。あるいは、単なる環境の産物という奴隷におとしめているのかもしれない。
ティールには、フェイスブックがマイスペースやソーシャルネット(ホフマンがはじめて起業した会社)の二番煎じではないことがはっきりと見て取れた。フェイスブックはアイデンティティ、つまり欲望を中心に構築されていた。ほかの人が何を持っていて、何を欲しているか把握できる。モデルを見つけ、追いかけ、自分との違いを認識するプラットフォームである。
欲望のモデルによって、フェイスブックは強力なドラッグとなっている。フェイスブックが生まれるまえ、人々のモデルは小さな集団のなかにいた。友人、家族、職場、雑誌、そしておそらくはテレビのなかに。フェイスブックができた今、世界中の誰もがモデルになる可能性がある。
フェイスブックにはあらゆる種類のモデルがいるわけではない(フォローするのは映画スターでもプロスポーツ選手でも有名人でもない人のほうが多いだろう)。そこにあふれているのは、社会的に見て自分の世界の側にいるモデルである。彼らとは距離が近いので自分と比較できる。彼らはもっとも影響力のあるモデルで、数えきれないほど存在する。
ティールはすぐにフェイスブックの可能性に気づき、外部からはじめて投資することになった。
「私は模倣に賭けた」。ティールは私にそう語る。五〇万ドルの投資は最終的に一〇億ドルとなった。
だが、もっと大きな問題がある。私たちは一人一人が、他者の欲望を形づくる責任を負っている。
同じように、相手はこちらの欲望を形づくる。出会いの一つ一つが、双方の欲望を強めたり、弱めたり、もしくは欲望を別のものに向けさせたりするのである。
つまるところ、二つの問いが重要となる。「あなたは何が欲しいのか」「あなたは他者の欲望の形成にどのような役割を果たしたか」。どちらの問いも、もう一方の問いに答える助けとなる。
今日出した答えに満足できなかったとしても、問題ない。もっとも重要な問いは、私たちが明日、何を欲しいと思うかだ。
この実験の赤ちゃんたちはまだしゃべれなかった。他者の欲望を理解し、言葉で表現できるようになるまえに、その欲望を追いかけたことになる。他者がなぜ欲しがるのかはわからないし、気にしてもいない。ただ単にその人が欲しがっていることに気づいたのである。
欲望は人間にもともと備わっている。なぜそれを欲しいのか説明ができるようになるずっとまえに、それを欲しがりはじめる。動機づけについて語るサイモン・シネックは、組織も人も「WHYから始めよ」と言っている(著書のタイトルにもなっている)。何よりもまず先に理由を特定し、伝えるべきだというのだ。しかし、欲しいものが何であれ、ほとんど場合、それはあとづけにすぎない。欲望からはじめるほうがいい。
バーネイズは自発的だと錯覚させた。欲望とはそういうものだと人々が思っているからだ。モデルは隠されているときにもっとも威力を発揮する。もし誰かに夢中になってもらいたいものがあれば、その欲望は自分自身のものだと信じさせる必要がある。
彼女のジラールに対する欲望の強さが、ジラールの彼女に対する欲望の強さに変化をもたらしたかのようだった。さらに、ほかの男が彼女に関心を示したことも影響した。彼女とその男は、彼女は欲するに値することをジラールに示したのである。彼女自身も身をひいたことで、その一端を担った。
「私はとつぜん気づいた。彼女は私にとって欲望の対象と媒介者の両方で、ある種のモデルであることに」。ジラールは過去を振りかえって言った。
人は第三者や相手への欲望をモデル化するだけではなく、自分自身への欲望もモデル化できる。つれない態度をとるのは、人を夢中にさせる確実な方法だが、なぜそうなのかと問う者はほとんどいない。模倣の欲望がヒントになるだろう。私たちがモデルにひきつけられるのは、手の届かないところにあるそれー愛情を含むーが欲するに値するものだと示してくれるからだ。
ジョブズは気づいていなかったが、同級生の部屋に足を踏みいれたとき、フリードランドは彼にとってのモデルになったのである。のちにフリードランドの本質を見抜くようになるものの、若き日のジョブズがこのとき体験した衝撃は、その後の彼に影響を与えつづけた。フリードランドは、おかしな行動や衝撃を与える行動は人を魅了すると教えた。人は異なるルールで動いているように見える人にひかれるものだ(リアリティ番組はこれを利用している)。
ジョブズは才気あふれる人物だったが、彼の魅力はそこではない。啓蒙思想の哲学者イマヌエル・カントも同じように優れた才能を持っていたが、その人生は退屈で、町の人々は彼の散歩する姿を見て時計の針を合わせたという。ジョブズが人を魅了したのは、彼が人とは違う形で欲したからだ。
私たちは人の魅力は客観的な性質、話し方、知性、粘り強さ、機知、自信などがもたらすと考えがちだ。確かにこれらも影響するが、それ以上に大きなものがある。
私たちは一般的に、欲望とのあいだに異なる関係(現実の関係あるいは認識された関係)を築いている人にひかれる。他人が欲しがっているものは気にしないように見える人、あるいは同じものを欲しがらない人は、別世界の人間のように感じるものだ。模倣に影響されず、反模倣的にさえ見える。
だから魅力的なのである。ほとんどの人はそうではないから。
ブラスは抜け出すことができた。ゲームとのかかわりかたを変えたからだ。
「私たちは常にもっと求める社会に生きている」。ブラスは言った。「もっと強く、もっと上へ、もつと数字を、常にもっと大きく、常にもっと高く。でも、人々のなかには、人生で本当に価値あるものを見直して手に入れたいという深い欲求があると思う」。ブラスにとって本当に価値あるものの中心には家族と、報復を恐れることなくオーブラックの食を創造して広めたいという欲求があった。
何かを変えなければならなかった。火を囲んで語りあったデイヴ・ロメロとの対話が、特に彼の声ににじみ出ていた後悔の念が、私に教えてくれた。それまで自分が戯れてきた欲望のほとんどが薄っぺらくてもろいものだったと。それは吹けば飛ぶほこりのようなものだった。人生の土台になる堅固なものではなかった。
デイヴの訃報を聞いてからまもなく、私は会社を縮小しはじめた。デイヴのことがあったからではなく、このとき徐々に進んでいた変化を形にするためにしなければならないと思ったからだ。
このとき私は自覚した。自分の心の奥底には、人生の大きな疑問を探究したいという欲望がある。
まずは自分から始めて、人間を深いところまで理解したい。
スキル1重力の中心を動かす
超越したリーダーは、自分の欲望を全面的に主張することはない。自分の欲望を重力の中心に置いて、それ以外のものを回転させるようなことはしない。そうではなく、重力の中心を自分から離して超越した目標に向け、自分はみんなと肩を並べて立つようにする。
一人類のすべての問題は、人が部屋のなかで一人で静かにすわっていられないことから生まれている」と一七世紀の物理学者、作家、発明家、数学者であるブレーズ・パスカルは述べている。現代では、騒音という公衆衛生上の問題がある。政府がそれに言及することはこれからもないだろう。できないからだ。しかし、私たちはそれに対してどうするかを選べる。
私の経験上、欲望を識別するのにもっとも効果的な環境は、サイレント・リトリートであるーできれば五日以上(最低でも三日)、音と画像が出るものはすべて電源を落とし、人里離れた場所で完全に電気を断つ。話をしてもいけない。
社は二〇一三年に、最後の三分のーーレオンからサンティアゴ・デ・コンポステーラまでーを「四日かけてのんびりと歩いた(三〇日ほどで全行程を行く人が多い)。立ちどまり、考え、話をする時間がたっぷり欲しかったからだ。自分自身は沈黙のなかで歩かなかったが、そうしている巡礼者と会ったときにはすぐにわかった。彼らは固い意志を持っていた。頭を垂れ、足を交互に運びながら、心のなかですべきことを行なっていた。
修道院で修道士の導きで行なわれるサイレント・リトリートに参加する人もいる。毎年、数日間、人里離れた場所に小さな家を借りる人もいる。人の数だけサイレント・リトリートの方法はある。沈黙をCEOや修道士だけの贅沢なものにしておく理由はない。もっと気軽に誰でも経験できるようにする方法はある。
コンピューターが大量のデータを緻密に調べることができる時代には、市場調査が勝利する。それをうまくやれる人たちが有利となる。ここに問題がある。私が知っている起業家で、進んでコンピューターの指示に従う者はいない。もちろん、起業家はデータを読めなければならないし、ほかの人が見過ごすところに気づくべきだ。しかし、起業の機敏な世界ではデータを超越したところに注意が向けられる。起業家でいることの喜びの一つは、先頭に立って導けることだ。欲望を新しい場所に連れていくのである。