【No,115】人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか

具体的ではなく抽象的に考えることで、
物事の本質を掴むことができる。
と森博嗣先生は言っている。

なるほどと納得する言葉がたくさんあった。
おすすめの本。

自分は普段から抽象的に物事を捉えているなと、改めて自覚したりもした。

 人間はいろいろな問題についてどう考えていけばいいのか メモ

客観的に考えるというのは、簡単にいえば、自分の立場ではなく、もっと高い視点から物事を捉えることだ

また、抽象的に考えるというのは、簡単にいえば、ものごとの本質を掴むことで、見かけのものに惑わされることなく、大事なことはどこにあるのかを探すような思考になる。

この場合、大事なことというのは、たとえば、ほかの事例にも役に立つこと、あるいは、細かい雑事を除いた大雑把な傾向のことだ。

たいていの場合、見かけのものや、細かい雑事というのは、結局は自分の立場であったり、人の目(世間体)であったり、過去から引きずっている感情的な印象などである。
こういった卑近で具体的なものが邪魔をするから、素直に本質が見えなくなっている。

すなわち、抽象的なものの見方をするためには、客観的で「クリーン」な視点が必ず必要なのだ。

「抽象」とは「ものの本質」に注目すること  辞書を引いてみよう。

「抽象」というのは、「事物または表象のある側面・性質を抽き離して把握すること」とある。
このとき、大部分の具体的な情報が捨てられるので、「捨象」という行為が伴う。
中身の食べられるところだけを抜き出して、外側の皮の部分を捨てる、と考えるとわかりやすいだろう。

どうして、このように情報を捨てるのかというと、そうすることで、何が本質かがわかりやすくなったり、別の多数のものにも共通する一般的な概念が構築しやすくなるからだ。

多くの場合、自殺する人の思考は、主観的であり、具体的すぎる、と僕は感じている。

それは、抽象化によって、適用できる範囲が広がり、類似したものを連想しやすくなることである。

これによって、ある知見が、まったく別のものに利用できるチャンスが生まれるし、また、全然違った分野から、使えるアイデアを引っ張ってくることも可能になる。

思い当たることがある人は、きっと抽象的思考が既にできているといえる。

大勢の「感情」を煽って、声を大きくすれば社会は動く、という考え方は、民主的ではなく、ファシズムに近い危険なものだと感じるのである。

戦争だって、国民の多くの声で突入するのだ。「国民の声を聞け」というが、その国民の声がいつも正しいとは限らないことを、歴史で学んだはずである。

そこにあるのは、多くの人たちが、物事を客観的に見ず、また抽象的に捉えることをしないで、ただ目の前にある「言葉」に煽動され、頭に血を上らせて、感情的な叫びを集めて山びこのように響かせているシーンである。

一つ確実に言えるのは、「大きい声が、必ずしも正しい意見ではない」ということである。
できるだけ多くの人が、もう少し本当の意味で考えて、自分の見方を持ち、それぞれが違った意見を述べ合うこと、そしてその中和をはかるために話し合うことが、今最も大事だと思うし、誤った方向へ社会が地滑りしないよう、つまり結果的に豊かで平和な社会へ導く唯一の道ではないか、と僕は考えている。

ここで大事なことは、人間を抽象的に捉えていなければ、その人間の深さが見えてこないという点である。

これは、人間の思考についてもいえる。
人の考えというのは、言葉でしか伝達できないものだが、とにかくそれを聞いたとき、「この考えはなかなか深いな」と感心することがある。

この深さというのは、これまでにモデル化された自身の型に簡単には当てはまらない未知のものがまだほかにありそうだ、という意味であり、もっと言えば、「その方面の抽象化を自分は見過ごしていた」ということでもある。

抽象的に人を見る人は、好き嫌いで人を判別せず、「この人からなにか自分に得られるものはないか」という興味を絶えず持っているものである。

好き嫌いだけで判断していないために、「思慮深く」なる。
そして、この「思慮深さ」というものは、思慮が浅い人にはまったく認識さえできない。

しかし、若い人たちは、生まれたときから情報の渦の中にいる。

昔に比べて今の若者は、与えられた情報にどっぷり支配されている。
そうしないと、「空気が読めない」奴だと言われ、また人と違っていると「いじめられる」ことになる。
少し客観的で優れた指摘をすると、「上から目線だ」と意味もなく嫌われる。

僕などは、「そんなつまらない空気なんか読むな」「少しくらい上から目線を持ってはどうか」と言いたい。

若者たちは、自分の価値判断というものは二の次で、とにかくまずは世間の流れに乗ろう、と必死なのだ。
その世間の流れというのは、なんのことはない、塵のように瑣末で具体的な情報であって、なにかがダイエットに効くと聞いて、それを買いに走り、新しいゲームが出れば、遅れないように列に並んで購入する、といった具合に、毎日、TVやネットで流れている催眠術のような「お告げ」に右往左往する忙しさの中、ただただ藻掻いているのである。

あたかも、そうすることでしか正常な人間関係が築けないと思い込まされている。年齢を重ねれば、だんだんその滑稽さがわかってくるのだが、気づいたときにはもう遅い、という悲劇もあるだろう。

また、歳を取っても気づかず、ずっとそんな具体的な情報に流されたまま生きている人も沢山いる。
気がつかない方が、幸せというものだろうか。

彼らの話を聞いてみるとわかる。
もの凄くローカルで細かい情報をやり取りしているのだ。どの店で買えばポイントが溜まる、あの店は何時に行けば安くなる、といった情報が、自分の人生にとって大変に価値のあるものとして扱われている。

そういう人ほど、他人の細かい悪口を言うし、誰と誰がつき合っているとか、あの人が着ていたものは安物だとか、そんな話しかしない。

ぼんやりと眺めると、具体的な細かい情報に飛びつき、それをそのまま横へ流しているだけの生き方に見える。

行動をするときには、自分の抽象的な思い、あるいはその思いの一部を、具体的なもの、すなわち、手が届く範囲に実在するものに関連づける思考が必要となる。

この思考は、論理的な計算に近いものになる。
自分の手が届く範囲にそういったもの、つまり「楽しさに繋がりそうなもの」が存在しない場合は、どうすればそれに近づけるのか、という方法を考え、ときには、調査や準備といった補助行動によって模索することにもなるだろう。

このプロセスでも、やはり発想が物事を前進させることが多く、そこではまた、抽象的思考が必要となる。

大事なことは、もともとの思考が抽象的であれば、「結果を具体的に限定しない」という有利さがあるという点だ。

つまり、「楽しいもの」というのは、具体的にこれと決まったものではないから、それを実現していくプロセスで、予想外のものに出会うことだってある。
そのとき、柔軟に進路を変更することも簡単だ。

一方、具体的に凝り固まった目標を持つと、実現のプロセスで少なからず自分を縛るため、ストレスになる。
「自分のやりたいものはこれだ。これ以外にない」という固い決心は、もちろん立派なことだけれど、それでも、もし「楽しさ」を求めているならば、無理に自分を縛る必要もないのではないか。

また、求めているものが、「豊かさ」であるなら、やり方を臨機応変に選びつつ、そのときどきで最も利潤が高いと予想されるものに向かうことだって難しくない。
これはビジネスの基本的な姿勢といえる。

ある)ものに、少しずつ、なにかしら、どこか引っかかる部分ができる。

そこから、それぞれの展開が始まるのである。
抽象性が高いものほど、展開には労力がかかるけれど、その分、広い範囲でヒットする。

それに、人に説明をしたり、文章にするようなことに慣れていない普通の人は、そもそも、自分の考えていること、自分が経験したことの抽象的な内容を言語化していないわけだから、ただ、ぼんやりと感じた曖昧な気持ちとして持っているだけの状態だ。

この本の文章を読んで、初めて「そうそう、そういうことなんだな」という気分になった方もいるのでは、と想像する。

ぼんやりとしたものを、ときどきは言語化し、少し鈍くなったり、少し違うものになってしまうかもしれないが、他人に説明するつもりで、自分自身の確認のために具体的な表現を試みるのも、それなりに有効だと思われる。

これは、ツイッタやブログにアップしない方が良い。
あくまでも、自分のためだからだ。
人目を気にしないことが大切である。

考えてみたら変な話だが、言語という具体的なもので、抽象的なことを表現するのである。

きっと、「~のような」という表現を多用することになるだろう。
伝達の難しさもわかるし、また、具体化することで失われるものも、明らかになるかもしれない。

人間関係というものは、他者と自分との関係であり、そこに介在するのは、つまりはほぼ言語に依存したコミュニケーションだといえる。

個人が抱いた抽象的な概念さえも、言葉によって、手探りで伝え合うしかない。

まったくもって、歯がゆいことだ。
しかし、言語がない場合に比べれば、まずまずの状況だとは思うのである。

なにが「発想」を邪魔しているか

まず大まかにいうと、個人がそれぞれに持っている抽象的思考の能力に対して障害となるのは、「これはこういうものなんだ」という外界からの押しつけであり、それらの情報の圧倒的な多さが、「疑問など持つな」と働きかける。

教育という行為は、少なからず、具体的情報を押しつける行為であり、ぼんやりと存在していた個人のイメージに対し、みんなで共有するために意味を限定(すなわち、定義)する作業の集積でもある。

結果として、皮肉なことに、教育が抽象的思考を阻害する可能性があることを、まず自覚しなければならない。

便利すぎて失われた時間

最近では、不思議なこと、わからないことは、すぐにネットで検索する。

もし、図書館で調べるとしたら、図書館が開く時間まで待たなければならない。
そうなると、それまでの時間は、謎は謎のままでその人の頭の中で放置されている。
少なくとも、少しは自分で謎に取り組む(あるいは、ぼうっと眺める)時間が必然的に生まれる。

ところが、すぐに検索できる便利さが普及したおかげで、「不思議だ」と思うのも束の間のこと、考えるよりもさきに、ネットにアクセスしてしまう。
このような現代において、抽象的思考をするのは、たしかに難しくなっていると感じられる。
あまりにも、具体的な情報が沢山あって、しかも簡単に(安く)得られるようになっているからだ。

人々が抽象的思考をしない理由には、こんな社会環境もあるとは思う。

手法のようなもの

さて、方法などない、ということと、現代ではますます難しい、ということを説明したが、気を取り直して、なんとかヒントになるようなものはないか、と(少々強引に)考えてみよう。

手法ではないが、手法的なもの、「手法のようなもの」ならば、なんとか提示できるかもしれない  思いついたものを幾つか挙げてみる。

・なにげない普通のことを疑う。
・なにげない普通のことを少し変えてみる。
・なるほどな、となにかで感じたら、似たような状況がほかにもないか想像する。
・いつも、似ているもの、喩えられるものを連想する。
・ジャンルや目的に拘らず、なるべく創造的なものに触れる機会を持つ。 ・できれば、自分でも創作してみる。

喩えられるものを連想する

もっと簡単に、見たものを別のもので喩える癖をつけることが、かなり有効に思える。
これは、具体的な方法に近いので、実践しやすい。

日本語には既にこの種の優れた比喩が沢山ある。
「苦虫を噛み潰したような」とか、
「徐かなること林のごとし」のような、これはちょっと思いつかないな、という喩えが優れている。

だから、「蝶のような花弁」なんていうのは落第だ。
もっと、連想が遠くへジャンプしていなければならない。

聞いた人は、「え?」と一瞬感じるが、しかし、「ああ、なんとなくわかる」となる、そんなぎりぎりの線がベストである。
ただ、人に話すために考えるのではないので、まったく遠くへ跳びっ放しでもかまわない。
自分で、これはなかなかではないかと評価ができれば、それで充分なのだ。
友達に会って、どうも冴えない顔をしていたら、「どうしたの? 冷蔵庫を開けたらマヨネーズが落ちたの?」と一瞬で言える人は、この比喩を常に探す癖がついている。
アドリブで面白いことがいえる芸人というのは、この種の鍛錬をしている人で、一種の「頭の良さ」を周囲に感じさせるだろう。

ただし、一度使ったネタは二度と使わないこと。
つまり、発想力を見せることが、評価を受ける条件だからだ。ネタとして持っているのではなく、アドリブで出てこなければ意味がない。

さて、では、芸術に触れて、わからないものをわからないままにしたら、いったいどうなるのか。

ほぼまちがいなく、自分もそのわからないものを作ってみようという動機になる。

「わからないもの」と書いたが、それは単に「綺麗なもの」「凄いもの」つまり、「感動できそうなもの」なのである。

芸術に触れたときには、ただ「感動した」という評価を持てばそれで充分だろう。

学校では読書感想文なんてものを子供に書かせているが、そのような言語化をさせることに意味はない(現に、多くの感想文には具体的なあらすじが書かれている)。

感想文を書くことが上手になれば、きっとその分、芸術家になれなくなるだろう。
解釈という単純化が、芸術を単なる技術にしてしまうからだ。
せいぜいなれても二流の芸術家だ。

創作を自分で行うには、「感動できるけれど言葉にならないもの」、そんな「わからないもの」を自分の中に持っていなければならない。

それは、もともと自分の中にあったものではない。
人間は、生まれたときには空っぽである。

考えて作り出せるといっても、それは外から取り入れたなんらかの刺激があったからだ。
その刺激を解釈してしまえば、それは具体的な学問になる。

しかし、芸術の創作は、「わからないもの」をわからないまま自分の中に取り入れた結果として可能になる「変換行為」だ。
抽象的なものを持っていることが、創作への主たる動機になる。

「なんか、こういうのって良いな」と思ったその気持ちを、そのまま自分の中に持ち続けていれば、その「なんか良いもの」を自分も生み出したくなる。

したがって、創作へ向かう欲求には、抽象的なものの捉え方が根底の部分で不可欠なのだ。

抽象化する力が不足している人は、創作するものが、人真似になるだろう。
自然にそうなってしまう。
それは、まだ具体的なものに囚われている証拠で、自分が目指すものが、充分に抽象化されていないことを示唆している。

それでも、ものを作り出そうという気持ちを持つだけで、ものの見方は変わる。
世の中に既に存在するものは、全部具体的なものであり、自分がこれから作ろうとするものは、まだ存在しないのだから、最初は少なからず抽象的だ。

抽象的なものから出発して、それを具体化していく行為を「作る」あるいは「創る」と呼ぶのである。
どんなものでも、自分で考えて作り上げる体験が、最も抽象的な思考力を養うだろう。

以前、読書会で出会った現代アーティストの方が言っていたのか、
その人が紹介してくれた本の言葉か忘れてしまったが、その際のメモ

・何気ない日常から、どこまで深く考えられるか

・ 発明は感覚から生まれる

・感じたこと、考えたことの言語化

・感覚を手に入れても言葉にできないと意味がない

・わかりにくい感情を形にしているのがアート

得た抽象的な感覚を、言葉や形に具体化していくのがアート。
確かそんなことを言っていた気がする。

人生を楽しむためには、この虚しさと親しみ、明日死ぬと思って毎日行動することだし、また、永遠に生きられると想像して未来を考えることである、と僕は思う。

「考え方」が人間を導く

世間には、自分の思いどおりに生きられない人が沢山いるように観察される。

口でそう言っているだけで、本当かどうかはわからないけれど、少なくとも、「毎日が楽しい」とか、「こんな幸せはない」というふうに語る人は、どちらかといえば少数だ。

どこでこの差が生まれるのか、と考えてみると、それは運とか収入とか、そういったものではなく、究極的には、その人の考え方なのだと思う。
考え方がすべての基本なのだ。

だから、現実がどんな状況であっても、肉体がどんな状態であっても、思考は自由であり、いつでも楽しさを生み出すことができるはずである。

ただ、現実や肉体といった具体的なものに囚われ、縛られ、不自由を強いられているのである。

そこに気づけば、少し気づくだけで、ふっと気持ちが軽くなるだろう。

自分で自分を楽にしてあげることが、抽象的思考の最終目的のように思う。
そう、「~のように」という部分が大事なのである。

最後に  僕は、人の意見を聞くときや、人が書いた本を読むときには、それで自分が影響を受けようという気持ちでいる。

そうでなければ、意見を聞いたり本を読む意味がない。
結果的に、影響を受けない場合もあるけれど、少なくとも、影響を受けたいと思わなければ、他者に関わる姿勢として不適当だと感じるのである。

ショッピングをするときだって、実際に買うつもりで見るときは真剣になるし、今は買えなくても、いつか自分も買おうと思わなければ、眺めているだけでは印象にも残らないだろう。

そして反対に、自分が意見を述べるときも、ものを書くときも、やはり、影響を受ける人がいてほしい、という気持ちはある。

実際には、意見を聞く人、本を読む人はほんの一部だから、「社会に訴える」みたいなスケールは全然ないけれど、一人でも多く、なんらかの影響を受けてくれることを願っている。

それは、僕に賛同しろという意味ではまったくなく、もちろん反対することだって影響であり、それでも全然かまわない。

もっと言えば、その影響が、その人自身を良い方向へ導くものであってほしい、と願うだけだ。  

人間というものは、基本的に自分自身を良い方向へ導く力を持っている。
僕が考えることは、それが基本にある。こうしてものを書いているのも、そのためだ。

自分の体験の共有を通して誰かに影響を与えたい。
そしてその影響が、その人自身を良い方向へ導くものであってほしい。

というのは、このブログを始めてからずっと思ってきたこと。

もっと多くの人に影響を与えることができるよう、
仕事も筋トレもブログも精一杯やろう。